大叔父について②

私の大叔父について紹介するシリーズ第2回です。
99式艦爆1
大叔父の搭乗機(同型機)。
車輪は出たままの固定脚だった。
99式艦爆2
真珠湾作戦・発艦直前の空母上。
戦闘機・爆撃機が入り混じりひしめき合っている。
99式艦爆3
発艦する搭乗機(同型機)。
99式艦爆4
空母を後にする搭乗機(同型機)。
短い飛行甲板での発着は熟練が要った。
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祖母は生前よく大叔父のことを「かわいそうだ」と言っていた。
祖母にとってたった一人の弟の死に方が、よほど不憫だったのだろう。
祖母は、大叔父のことが書いてある記事(新聞、雑誌など)を全て大切に保存していた。
特に「少年倶楽部」誌(軍国少年のバイブルとされた少年誌)は多くのページ数を使って大叔父が家族に書き送った手紙や写真が掲載されたものだった。
家族宛の手紙は命を捨てるきっぱりとした覚悟に満ちたものであり、写真は二十歳前の若者とは思えない貫禄ある容貌である。
どこを切っても金太郎飴のように「強さ」しか出てこない、強さのかたまりのような印象を持った。赤ちゃんのころの写真までも掲載されていたが、それすら貫禄あふれる赤ちゃんなのだから、これはかなわんと思った。
(前回掲載の写真はどちらかというと飄々とした感じで、だいぶ印象がちがうのですが…撮影時期の違いか、または写真映りのせいでしょうか)
さて、大叔父は太平洋戦争の緒戦「真珠湾奇襲」に加わった6隻の空母の1隻「加賀」から攻撃隊の一員として出撃した。
攻撃隊はゼロ戦を主力とする戦闘機と、「艦攻」「艦爆」と呼ばれる爆撃機から成る。
戦闘機は敵機の撃墜や爆撃機の護衛、爆撃機は魚雷や爆弾の投下が主な任務である。
当時、世界最強の戦闘機「ゼロ戦」は一人乗りで軽量、搭乗員の練度も高く、次々敵機を落としたという。
一方の爆撃機は2人乗り(または3人乗り)で速度も遅く、おまけに敵艦にできるだけ近付いて魚雷や爆弾を落とすという作戦の性質上、危険度が高く、「運を天に任せる」ような部分があった。
大祖父は中でもとりわけ危険な「急降下爆撃機」の搭乗員であった。
急降下爆撃というのは、敵艦船に向けて急降下し、ぎりぎりまで近付いて爆弾を落とすという捨て身の攻撃で、当然ながら敵艦からの対空砲火の餌食になったり、また敵戦闘機に撃たれたり、急降下後の操縦ミス(機首の引き上げの遅れ)で海面に突っ込んだりと、未帰還率が高かったようである。
真珠湾作戦においては2次にわたる攻撃が行われ、不意を突いた1次攻撃に続く2次攻撃は、敵の準備が整った後であったため、特に未帰還が多く出たという。
大叔父は2次攻撃隊だった。
大叔父の搭乗機は「九九式艦爆」という当時の新鋭機だが、防弾性能が低く、流れ弾が一発当たるだけで火を吹くようなもろさであったこと、また対空火力も弱く、速度や操作性も戦闘機と比べて大きく劣っていたため「九九式棺桶」などと揶揄された。
防弾性能が低いのは、装甲を薄くし、防弾装置を省いて重量を減らしてスピードを確保する意図だそうだが、人命無視の設計思想はひどいもんである。
当時の爆撃機搭乗員で、終戦まで生き残った者はほとんどいないとのこと。
真珠湾攻撃隊の搭乗員は皆、自身が作戦から生きて帰還することは無いと考えていたようである。
大叔父はそれでも出撃し、実際、未帰還となった。
大叔父の最期については僚機による確認がされていないが、他の多くの未帰還機と同様、敵の対空砲火により致命的な損傷を受け、自爆攻撃を敢行したのではないかとされている。
(続く)
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本稿の作成を機に、大叔父の生涯を正確に知りたいと思い、現在厚生労働省に大叔父の軍歴を照会中です。
次回は省からの回答を待ち、掲載いたします。